前に友達に「どうして恋愛では絶対セックスしないといけないって思うの?」と言われたことがあった。 でも別に小生はセックス=愛と思っているわけではない。 セックス無しの恋愛だってできないことはないだろうと思う。でもセックスなしならどこまでが許されるのだろう? 手を繋ぐのはいいだろう。キスはどうだろうか?いやらしいいい方(?)をすればキスもセックスも粘膜と粘膜の接触である。 だいたいあつーいキスをしていればエッチもしたくなるってのが人情だ(多分。だいぶ話がそれてしまったな…

 ここからは小生の主観であって同意できない方も多くおられると思うが、小生はセックスと言う行為で恋に落ちてしまいやすい。 セックスという行為を行っているうちになんだか相手が愛しくなってしまうのだ。だから気持ちのないセックスをいうものは小生にはできないと思う。

 「体のレンタルだと思えばなんともない」そういう言葉を聞いたこともあるが、小生にはそれこそ理解できない。セックスとは相手を思いやらなければできない行為だと思うからだ。 相手はどこが気持ちいいのか、どういう風に責められると興奮するのか、体の感じる部分を探すとともに心の感じる部分も探していくことがセックスなのではないだろうか。 そう考えれば、セックスはベッドの上で行われる恋愛の縮図のようにも考えることができると思う。相手の喜ぶ事、驚く事、たまには相手に身を委ねたり、たまには相手に身を委ねられたり。 相手の自分勝手な行動に腹をたててみたり、うまくいかなかった時にへこむ相手を愛しく思ってみたり…

 相手が恋愛中になにも自分の事を考えてくれなければ腹もたつでしょう?自分のためにがんばってくれても、それがまったくの的外れでイライラすることだってあるでしょう?自分のことを気にしてくれることは嬉しいでしょう?相手のしてくれた事が自分の求めている事とが一致すればなおさら嬉しいでしょう? ある意味セックスはそういうものを鍛える場なのかもしれないと思えば素敵(?)じゃないですか?

 相手を考えて行為に勤しむこと考えればこれも立派な愛の一つとなりうるのだと小生は考えます。行為自体を恥ずかしい事、表立ってしてはいけないものと考えがちな部分が世にあることが、 どうしてもセックスありきの恋愛と言う形を認めにくい理由になっているのかもしれない。ただコレだけは言える。恋愛自体、「愛してるよ」と言うなどの恥ずかしい行為からなりたっている。 セックスだけ別物として扱わなければ、「セックスを相手に求める愛」もいいんじゃないかと小生はそう思うわけである。
 追記:あまり宗教的なことは書きたくないので、参考程度として受け取って欲しいのですが、キリスト教では大きく分けて三つの愛がある。アガペー(見返りを求めない愛、紙の愛)、フィリア(隣人愛)、エロース(異なるものを求める愛)だが、 今回のテーマのセックスもようするに異なる者を求めているのではないか。まあ他にもDNAは自分に足りないものを求めと言われていたりと、男が女を求める、女が男を求めるのは自然なこととも言えると思う。


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